HOME:広田せい子のハーブガーデン

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パール・ハーバー、そして・・・

今日は,「開戦記念日」。

昭和16年12月8日。日曜日の静かな朝のしじまを破り、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した。この奇襲作戦によって、第2次世界大戦の火蓋は切って落とされた。

戦争が始まった日からちょうど8日後の16日に、私は生まれている。



当時の大本営発表は、「勝ちいくさ」一色という報道だったという。

しかし、初産の若い母親は先行きのことを考えるたびに、ひじょうに不安だったにちがいない。父は師範学校を出たのち数年間は教壇に立ったが、生家円通寺の11世として跡を継ぐために、曹洞宗の駒澤大学へ入学しなければならなかった。

母は教職を辞めて父と結婚をしたものの、夫は大学へ戻り、人一倍きつい姑と暮らす毎日は、おそらく針の筵だったことだろう。

しかも生まれた赤子は、跡継ぎにはならない女の子だった。

寺を継ぐ男の子を産むのは、嫁に課せられた最も重要な仕事だから、母の立場はさぞ辛いこともあったと思われる。

跡継ぎが生まれるまで、母は私の16年を筆頭に18年、20年、22年に5人の子供を出産した。4回のお産で5人の子供では数が合わないと思った方もいるだろう。そう、女、女、女と続き、がっかりした両親は再チャレンジをした。幸いにも男と女の2卵生双生児だったので、跡継ぎ問題は解消ということになった。



戦争は4歳の時に終わった。

幸運にも父も、南方へ出征した叔父も無事帰国し、耐乏生活ながら少しづつ普通の暮らしにもどっていった。

戦争と聞いてすぐに頭に浮かぶのは、本堂の戦死者の部屋だ。

入り口に「英霊位」と墨で書いた大きな木札がかかげられ、位牌段には骨箱や兵士の写真が並んでいた。

兵士といってもまだ少年のような面差しで、耳にウサギの毛で作ったような耳あてつきの飛行帽を被り、ゴーグルを額の上にあげていた。

水平帽に水兵服を着た兵士もいた。

静かな室内に線香の匂いがこもり、母親らしき人がお供えを上げながら、ぼろぼろ涙を流して泣いていた姿が、目の前にちらちらする。

ガダルカナル島を知ったのは、お参りに来た母親の口から聞いたからだ。

戦争といえば、あの部屋のシーンとした静けさと、母親の号泣を真っ先に思い出されてくる。



戦争があってはならない。命を奪うこともあってはならぬ。



平和な日々が続くことを祈るばかりだ。













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