105円の鯉幟

我家には3人も息子がいたのに、端午の節句の武者人形も鯉幟もない。
長男が生れたとき、実家の母は「お祝いに人形飾りを送るから」といってくれた。
しかし私は、「こちらでいい人形店を知っているから、お金だけを送って」
などといい、お祝い金をもらった。
二男のときは、親は怪しんだとみえて、
お祝いに来ることになった。
せっかくお祝いを贈っても、礼状だけで記念の写真も届かないのだから、
親としては娘を強くたしなめ、人形飾りと孫たちの顔を見たかったのだろう。
はっきり言うと、親からのお祝い金は、使い込みをしてしまった。
それも何を買ったとということもなく、いつの間にか消えてしまったのだ。
最初は、「これは一時的に借りるだけ。後で埋め合わせをして元の金額に戻しておくから・・・」と自分自身に言い訳をしていた。
しかし、一度手をつけてしまうと心のたがが緩み、なし崩しににおかずやクリーニング代などの日常的なものに使ってしまったようだ。
今思うと、新しいマンションを買って郊外へ引越したものの、当時はまだ珍しいた鉄道のフリーカメラマンの収入は、不規則な上に決して高くはなかった。
私も育児に専念するために高給だった講談社を退社し、無収入だったから、
お祝い金に手をつけるのは、仕方がなかったのかもしれない。
とうとう母が来る日の前に、私はビニールの鯉幟を近くのおもちゃ屋で求めた。値段は忘れたが、高いものではない。
鯉幟はベランダの端に飾った。
その夜は強風が吹いたせいか、朝起きてみたら鯉幟がいない。6階は風当たりが強いので、何処かへ吹き飛ばされてしまったのだ。
長男の手を引いてまだ原っぱだった周囲を探した結果、とんでもなく離れたところでやっと見つけたのは、泥まみれの鯉幟だった。
母からはきつくいさめられるし、子供たちは泣き出すし、私まで泣き出したい気持ちをガマンしていた・・・・。
先日、通りかかった100円ショップの店頭に、ナイロン製の小さな鯉幟がたくさんはためいていた。
夫も思い出したらしく、私が買いたいと行っても反対しない。
子供がもういない家なのに、ナニワイバラの支柱に止めつけた105円の2匹の鯉は、
母を思い出させるように時おり風に揺れている。