あぁ、あれから50年!!!
5月23日は、私たちの金婚式だった。
当日は子どもたちからの招待により、
50年前に結婚式を挙げた一ツ橋の如水会館にファミリーが集い、
美味しいフランス料理で祝いあった。

ここにややセピア色に変色した写真がある。
如水会館のスタジオで撮影した結婚記念写真だ。
羽織り袴の正装をした新郎尚敬(29歳)、そして白無垢の花嫁衣装に身を包んだ新婦靚子(23歳)。
二人とも緊張した面持ちなのは、
これからの人生に対して、期待を抱きながらも少なからず不安をおぼえているのかもしれない。

ディナーの始まる前に、3階にある写真スタジオで家族全員の記念写真を撮った。
みんなの笑い声とジョークが飛び交う中で、和やかに撮影が進んだが、
50年の間に私たち二人の間から3人の息子が生まれ、それぞれの妻たちに2人の孫たちも加わって、
総勢10名の家族となっていることを、改めて実感した。
それよりも、これまで、誰一人として欠けた者がなく、
入院するような重い病気に罹った者もいなかったのは、何とありがたいことだろう。

思い返してみると
1964年の秋、東京オリンピックの時に知り合い、翌年の初夏に結婚したものの、
肝心のお式や披露宴のことなどは気が動転していたのか、ほとんど何も覚えていない。
招待客の顔ぶれや会場の雰囲気などを、写真で知るのが精一杯で、
お色直しの振袖は、どのような色だったのか、
モノクロ写真は、何も語ってくれない。

新婚旅行は、九州から屋久島への11日の旅だった。
当時は自己主張など考えてもみなかった素直な私は(?)、
旅のスケジュールもみんな彼rにお任せしたのが、大失敗!

長崎のグラバー邸や大浦天主堂、活水女学院など私の好みの場所もいくつかはあったが、
行く先々に、蒸気機関車や路面電車、屋久島では森林軌道のトロッコなどが待っていた。
機関区のある駅では撮影が終わるまで数時間もプラットホームのベンチで待っていたり、
山の中のひなびた温泉に泊まって、宿の窓から列車を狙ったり、
新婚旅行とはロマンチックなものと思っていた私には、驚くことばかりだった。
後になってわかったことだが、
彼にとってハネムーンよりも作品作りのほうが何倍も大事だったのだろう。
これまで行きたくてもなかなか行くことが出来なかった九州地方はSLの宝の山だ。
せっかく行くのだからあれもこれも・・・・・、
と意気込んだ結果が、
「新妻と行く九州・屋久島ローカル線の旅」となったのだと思っている。

現在、カメラによる鉄道趣味を楽しんでいるファンは、実に多い。
しかし、結婚した当時は、鉄道カメラマンといっても世間で通用するカテゴリーではなかった。
幼い頃から鉄道の魅力に目覚めた彼は、父親のカメラを借りて撮り始め、
高校在学中にアメリカの鉄道雑誌の表紙を飾ったものの、
その頃は鉄道をテーマとした作品を、メディアに発表する場は日本にはなかったようだ。
彼の仕事の特徴は、作品を創りながら発表の場を開拓し、
アートとしての、質をたかめていった点にあるといわれているように、
彼の成し遂げた業績は誰もが認めるところだ。
私は鉄道カメラマン・広田尚敬が「進化」していく様を最も身近な位置で見続けてきている。
様々な困難をラッセルし、自分の体に熱く燃える火を焚き、
細い体でぶつかっていく闘志には頭が下がる。
物事を成し遂げるには、実力ばかりではなく、健康、体力、人柄に運という大切な要素がある。
私には健康管理の点で気をつけてきたが、おかげさまで元気はつらつ。
仕事のほうも順調で、今年は展覧会を夏と秋の2回開催する予定だ。
でも、あまり無理をしないで・・・。
ワインを飲みながら書いていたら、少々脱線してしまった。
それにしても、
あぁ、あれから50年・・・・・。
金婚式とは過去を振り返ってみるのによい機会で、
まさに人生の節目といえよう。
当日は子どもたちからの招待により、
50年前に結婚式を挙げた一ツ橋の如水会館にファミリーが集い、
美味しいフランス料理で祝いあった。

ここにややセピア色に変色した写真がある。
如水会館のスタジオで撮影した結婚記念写真だ。
羽織り袴の正装をした新郎尚敬(29歳)、そして白無垢の花嫁衣装に身を包んだ新婦靚子(23歳)。
二人とも緊張した面持ちなのは、
これからの人生に対して、期待を抱きながらも少なからず不安をおぼえているのかもしれない。

ディナーの始まる前に、3階にある写真スタジオで家族全員の記念写真を撮った。
みんなの笑い声とジョークが飛び交う中で、和やかに撮影が進んだが、
50年の間に私たち二人の間から3人の息子が生まれ、それぞれの妻たちに2人の孫たちも加わって、
総勢10名の家族となっていることを、改めて実感した。
それよりも、これまで、誰一人として欠けた者がなく、
入院するような重い病気に罹った者もいなかったのは、何とありがたいことだろう。

思い返してみると
1964年の秋、東京オリンピックの時に知り合い、翌年の初夏に結婚したものの、
肝心のお式や披露宴のことなどは気が動転していたのか、ほとんど何も覚えていない。
招待客の顔ぶれや会場の雰囲気などを、写真で知るのが精一杯で、
お色直しの振袖は、どのような色だったのか、
モノクロ写真は、何も語ってくれない。

新婚旅行は、九州から屋久島への11日の旅だった。
当時は自己主張など考えてもみなかった素直な私は(?)、
旅のスケジュールもみんな彼rにお任せしたのが、大失敗!

長崎のグラバー邸や大浦天主堂、活水女学院など私の好みの場所もいくつかはあったが、
行く先々に、蒸気機関車や路面電車、屋久島では森林軌道のトロッコなどが待っていた。
機関区のある駅では撮影が終わるまで数時間もプラットホームのベンチで待っていたり、
山の中のひなびた温泉に泊まって、宿の窓から列車を狙ったり、
新婚旅行とはロマンチックなものと思っていた私には、驚くことばかりだった。
後になってわかったことだが、
彼にとってハネムーンよりも作品作りのほうが何倍も大事だったのだろう。
これまで行きたくてもなかなか行くことが出来なかった九州地方はSLの宝の山だ。
せっかく行くのだからあれもこれも・・・・・、
と意気込んだ結果が、
「新妻と行く九州・屋久島ローカル線の旅」となったのだと思っている。

現在、カメラによる鉄道趣味を楽しんでいるファンは、実に多い。
しかし、結婚した当時は、鉄道カメラマンといっても世間で通用するカテゴリーではなかった。
幼い頃から鉄道の魅力に目覚めた彼は、父親のカメラを借りて撮り始め、
高校在学中にアメリカの鉄道雑誌の表紙を飾ったものの、
その頃は鉄道をテーマとした作品を、メディアに発表する場は日本にはなかったようだ。
彼の仕事の特徴は、作品を創りながら発表の場を開拓し、
アートとしての、質をたかめていった点にあるといわれているように、
彼の成し遂げた業績は誰もが認めるところだ。
私は鉄道カメラマン・広田尚敬が「進化」していく様を最も身近な位置で見続けてきている。
様々な困難をラッセルし、自分の体に熱く燃える火を焚き、
細い体でぶつかっていく闘志には頭が下がる。
物事を成し遂げるには、実力ばかりではなく、健康、体力、人柄に運という大切な要素がある。
私には健康管理の点で気をつけてきたが、おかげさまで元気はつらつ。
仕事のほうも順調で、今年は展覧会を夏と秋の2回開催する予定だ。
でも、あまり無理をしないで・・・。
ワインを飲みながら書いていたら、少々脱線してしまった。
それにしても、
あぁ、あれから50年・・・・・。
金婚式とは過去を振り返ってみるのによい機会で、
まさに人生の節目といえよう。