ジャカランダの花に惹かれて
親が子供たちに残していったものは、形のあるものばかりではない。
花を愛してやまなかった母がよく語っていた花々への強い思い・・・。
それは私たち弟妹に受け継がれ、母をしのぶよすがとなっている。

先日、車で環状8号線大森方面から瀬田の方へ向かって走っていると、
右側の信号前方にある街路樹が、何かおかしいことに気がづいた
行儀よく揃っている緑色の並木から、青紫の花をたわわにつけた大きな枝が、
道路の方へ前のめりになっているのだ。
あわてて場所を確認すると「大田区民ホール入口」という標識が目に入った。

「まさか、こんなところに咲いていたとは・・・・・」
この美しい花は,南米原産のジャカランダといい、
母がわざわざ南アフリカのケープタウンまで、観に行ったことがある珍しい花木なのだ。
「桐の花に似た大きめの花房がいくつもいくつも垂れ下って、まるで夢のようだったわ。
あの青紫の色は、何と形容したらよいのかしらねぇ」
母の声が耳元で聞こえるようだ。
母は何事に対しても、意欲的な人だった。
当時はアパルトヘイトの嵐が吹き荒れたマンデラ政権の時代だから、
物見遊山的な観光旅行ではない。
有色人種の日本人が、なぜ「名誉白人」扱いをされるのか、
を教えてくれたのも、母だった。

「お母さんが好きだったあのジャカランダを、何と東京で発見!」
この興奮を誰かに伝えたい・・・・。
すぐに思い浮かんだのは、近くに住む私以上に花の好きな末の妹だった。

車中から携帯で電話をすると、
「私もお姉ちゃんに連絡したかったの。
信じられないでしょうけど、熱海の街にジャカランダが咲いているのよ」
函南に用事があって熱海を通った時に目にしたのだそうだ。
母から聞いていた青い花が、同時に二人の前に現れるとは、何と不思議なことだろう。

翌々日の朝、夫の運転で私たちは熱海へ向かった。
目指すジャカランダのプロムナード(並木路)は、ヨットハーバーやお宮緑地のある親水公園にあった。
朝日を受けて清らかに咲く花の美しさに一瞬息を飲み、
熱海とは思えない異国情緒に満ちた雰囲気に驚いてしまった。

聞いてみると、平成2年に国際姉妹都市ポルトガルのカスカイ市から贈られた2本の苗から、
このように立派な成木に育てたのだそうだ。
市役所の方々の愛情と努力に頭が下がるが、
熱海の温暖な気候も大いにプラスしているように思える。
帰りの車の中で、母の勇気ある行動に今更ながら感心し、
娘二人が楽しんできたことを心の中で報告した。
後日談がある。
私のすぐ下の京都に住む妹が、末の妹からの電話で、
闘病中なのに新幹線で熱海までジャカランダの花見へ出かけている。
浦和に住む三番目の妹も、花と旅が大好きだから、もう出かけているかもしれない。

花を愛するDNAを娘たちに分けてくれた母京子は、
この夏17回忌を迎える。
★ 写真はすべて熱海で撮影
ブルー・スイートピーとガーデニング

「ガーデニングって、いったい何が面白いのかしら。
あなたと長いこと付き合っているけど、つくづくそう思うわ。
腰が痛いとか、疲れたとか、口癖のよう言いながら、朝早くから暗くなるまでよくそんなに働くこと。
土いじりのどこがいいの?
こっちを向いて顔を見せてよ、帽子もかぶらず、日焼け止めクリームも塗ってないから、ソバカスだらけじゃないの。
あぁ、だめだわ手もこんなに荒れて真っ黒け。あれほど言ったのにやっぱり私が上げた手袋しなかったのね」
学生時代から親しく付き合ってきた親友の言葉に悪意はない。
善意から、思った通りのことを口にする。そして、正しい。
私の顔を見るたびに噛んで含めるように、同じセリフを繰り返し、反省を強要するのはいつものことだ。
彼女はガーデニングとは花を咲かせることだと思っている。
確かに「開花」は栽培過程の内でクライマックスといえるシ-ンだが、楽しみはこれだけではない。
先ほどまでしとしとと降っていた雨が止み、急にh陽が射してきた。
長雨でかなりりいたんだ庭が気になって、長靴をはいて外へ出てみると、
あれほど賑やかだった花壇も濃い緑色一色になり、
つるバラのアーチ に蒔きつた青いスイートピーが、小さな蝶のように揺れている。
そうだ、この花を例に挙げて、ガーデニングの楽しみや喜びを、あらためてみつめてみよう。
続く
今日もガラスと遊ぶ

今年の梅雨ははっきりしない。
天気予報も当てにならないので、水やりや庭仕事をするしないは、カンで行っている。
蚊に刺されぬように蚊取り線香を持って庭へ出るのだが、
電話や来客、急に思いついたことがあったりすると、
蚊取り線香を置いたままにしてしまいがちだから、気をつけなくては.・・・・・・。
今日の草取りの仕事は早めに切り上げ、
目に付いた小枝をほんの少しずつ切って、
涼しげなガラスのコップに飾った。

クチナシの花は、曇り空の蒸し暑い日に、官能的な香りがよりいっそう強くなる。
ガラスの器に合わせて、小さめの花を探してカット。
細い絹糸を束ねたようなめしべを持つ白い花は、清楚な芳香をもつ銀梅花。
二つの香りが溶け合って、今まで知らなかった香りのハーモニーが生まれた。・
彩りに、まだ熟していないサンゴ色の桑の実も添えて。

パリの蚤の市で見つけたガラスの靴。
見ているだけでも楽しいが、命あるものを加えると、愛しいものとなる。
靴のくぼみに土をほんの少々入れ、
短く切ったセダムの先端を乗せておいたら、直ぐに根付いた。
今度はちょっと深めの瓶の蓋とか、おちょこなどに、苔を仕込んでみよう。
こんな小さな園芸は、アイディア次第で誰にでもできる。
小さなガラスに
あぁ、あれから50年!!!
5月23日は、私たちの金婚式だった。
当日は子どもたちからの招待により、
50年前に結婚式を挙げた一ツ橋の如水会館にファミリーが集い、
美味しいフランス料理で祝いあった。

ここにややセピア色に変色した写真がある。
如水会館のスタジオで撮影した結婚記念写真だ。
羽織り袴の正装をした新郎尚敬(29歳)、そして白無垢の花嫁衣装に身を包んだ新婦靚子(23歳)。
二人とも緊張した面持ちなのは、
これからの人生に対して、期待を抱きながらも少なからず不安をおぼえているのかもしれない。

ディナーの始まる前に、3階にある写真スタジオで家族全員の記念写真を撮った。
みんなの笑い声とジョークが飛び交う中で、和やかに撮影が進んだが、
50年の間に私たち二人の間から3人の息子が生まれ、それぞれの妻たちに2人の孫たちも加わって、
総勢10名の家族となっていることを、改めて実感した。
それよりも、これまで、誰一人として欠けた者がなく、
入院するような重い病気に罹った者もいなかったのは、何とありがたいことだろう。

思い返してみると
1964年の秋、東京オリンピックの時に知り合い、翌年の初夏に結婚したものの、
肝心のお式や披露宴のことなどは気が動転していたのか、ほとんど何も覚えていない。
招待客の顔ぶれや会場の雰囲気などを、写真で知るのが精一杯で、
お色直しの振袖は、どのような色だったのか、
モノクロ写真は、何も語ってくれない。

新婚旅行は、九州から屋久島への11日の旅だった。
当時は自己主張など考えてもみなかった素直な私は(?)、
旅のスケジュールもみんな彼rにお任せしたのが、大失敗!

長崎のグラバー邸や大浦天主堂、活水女学院など私の好みの場所もいくつかはあったが、
行く先々に、蒸気機関車や路面電車、屋久島では森林軌道のトロッコなどが待っていた。
機関区のある駅では撮影が終わるまで数時間もプラットホームのベンチで待っていたり、
山の中のひなびた温泉に泊まって、宿の窓から列車を狙ったり、
新婚旅行とはロマンチックなものと思っていた私には、驚くことばかりだった。
後になってわかったことだが、
彼にとってハネムーンよりも作品作りのほうが何倍も大事だったのだろう。
これまで行きたくてもなかなか行くことが出来なかった九州地方はSLの宝の山だ。
せっかく行くのだからあれもこれも・・・・・、
と意気込んだ結果が、
「新妻と行く九州・屋久島ローカル線の旅」となったのだと思っている。

現在、カメラによる鉄道趣味を楽しんでいるファンは、実に多い。
しかし、結婚した当時は、鉄道カメラマンといっても世間で通用するカテゴリーではなかった。
幼い頃から鉄道の魅力に目覚めた彼は、父親のカメラを借りて撮り始め、
高校在学中にアメリカの鉄道雑誌の表紙を飾ったものの、
その頃は鉄道をテーマとした作品を、メディアに発表する場は日本にはなかったようだ。
彼の仕事の特徴は、作品を創りながら発表の場を開拓し、
アートとしての、質をたかめていった点にあるといわれているように、
彼の成し遂げた業績は誰もが認めるところだ。
私は鉄道カメラマン・広田尚敬が「進化」していく様を最も身近な位置で見続けてきている。
様々な困難をラッセルし、自分の体に熱く燃える火を焚き、
細い体でぶつかっていく闘志には頭が下がる。
物事を成し遂げるには、実力ばかりではなく、健康、体力、人柄に運という大切な要素がある。
私には健康管理の点で気をつけてきたが、おかげさまで元気はつらつ。
仕事のほうも順調で、今年は展覧会を夏と秋の2回開催する予定だ。
でも、あまり無理をしないで・・・。
ワインを飲みながら書いていたら、少々脱線してしまった。
それにしても、
あぁ、あれから50年・・・・・。
金婚式とは過去を振り返ってみるのによい機会で、
まさに人生の節目といえよう。
当日は子どもたちからの招待により、
50年前に結婚式を挙げた一ツ橋の如水会館にファミリーが集い、
美味しいフランス料理で祝いあった。

ここにややセピア色に変色した写真がある。
如水会館のスタジオで撮影した結婚記念写真だ。
羽織り袴の正装をした新郎尚敬(29歳)、そして白無垢の花嫁衣装に身を包んだ新婦靚子(23歳)。
二人とも緊張した面持ちなのは、
これからの人生に対して、期待を抱きながらも少なからず不安をおぼえているのかもしれない。

ディナーの始まる前に、3階にある写真スタジオで家族全員の記念写真を撮った。
みんなの笑い声とジョークが飛び交う中で、和やかに撮影が進んだが、
50年の間に私たち二人の間から3人の息子が生まれ、それぞれの妻たちに2人の孫たちも加わって、
総勢10名の家族となっていることを、改めて実感した。
それよりも、これまで、誰一人として欠けた者がなく、
入院するような重い病気に罹った者もいなかったのは、何とありがたいことだろう。

思い返してみると
1964年の秋、東京オリンピックの時に知り合い、翌年の初夏に結婚したものの、
肝心のお式や披露宴のことなどは気が動転していたのか、ほとんど何も覚えていない。
招待客の顔ぶれや会場の雰囲気などを、写真で知るのが精一杯で、
お色直しの振袖は、どのような色だったのか、
モノクロ写真は、何も語ってくれない。

新婚旅行は、九州から屋久島への11日の旅だった。
当時は自己主張など考えてもみなかった素直な私は(?)、
旅のスケジュールもみんな彼rにお任せしたのが、大失敗!

長崎のグラバー邸や大浦天主堂、活水女学院など私の好みの場所もいくつかはあったが、
行く先々に、蒸気機関車や路面電車、屋久島では森林軌道のトロッコなどが待っていた。
機関区のある駅では撮影が終わるまで数時間もプラットホームのベンチで待っていたり、
山の中のひなびた温泉に泊まって、宿の窓から列車を狙ったり、
新婚旅行とはロマンチックなものと思っていた私には、驚くことばかりだった。
後になってわかったことだが、
彼にとってハネムーンよりも作品作りのほうが何倍も大事だったのだろう。
これまで行きたくてもなかなか行くことが出来なかった九州地方はSLの宝の山だ。
せっかく行くのだからあれもこれも・・・・・、
と意気込んだ結果が、
「新妻と行く九州・屋久島ローカル線の旅」となったのだと思っている。

現在、カメラによる鉄道趣味を楽しんでいるファンは、実に多い。
しかし、結婚した当時は、鉄道カメラマンといっても世間で通用するカテゴリーではなかった。
幼い頃から鉄道の魅力に目覚めた彼は、父親のカメラを借りて撮り始め、
高校在学中にアメリカの鉄道雑誌の表紙を飾ったものの、
その頃は鉄道をテーマとした作品を、メディアに発表する場は日本にはなかったようだ。
彼の仕事の特徴は、作品を創りながら発表の場を開拓し、
アートとしての、質をたかめていった点にあるといわれているように、
彼の成し遂げた業績は誰もが認めるところだ。
私は鉄道カメラマン・広田尚敬が「進化」していく様を最も身近な位置で見続けてきている。
様々な困難をラッセルし、自分の体に熱く燃える火を焚き、
細い体でぶつかっていく闘志には頭が下がる。
物事を成し遂げるには、実力ばかりではなく、健康、体力、人柄に運という大切な要素がある。
私には健康管理の点で気をつけてきたが、おかげさまで元気はつらつ。
仕事のほうも順調で、今年は展覧会を夏と秋の2回開催する予定だ。
でも、あまり無理をしないで・・・。
ワインを飲みながら書いていたら、少々脱線してしまった。
それにしても、
あぁ、あれから50年・・・・・。
金婚式とは過去を振り返ってみるのによい機会で、
まさに人生の節目といえよう。